●絶版になった第一歌集
先日、ずっと読みたかった早坂類の歌集『風の吹く日にベランダにいる』を、仕事の研修で訪れた大宮の図書館で読むことができた。
早坂類の短歌は、穂村弘による短歌の入門書(兼歌論)『短歌という爆弾』で紹介されて知ってから、一番気になっていた歌人だったのだが、第一歌集である本書は絶版になっていて手に入らなかった。今回図書館で読めることを知って読みにわざわざ向かったが、その価値が十分にある歌集だった。『短歌という爆弾』でも穂村弘が絶賛していたように、早坂類の歌にしかない空気感が忘れらない歌集なのだ。
早坂類は、1959年山口県生まれの女性歌人。あとがきでの著者自身による紹介によると、7歳で詩をかきはじめ、短歌を始めたのは19歳のとき。高校卒業後、様々な職(アルバイト)を転々としてきたという。同作品は1992年の〔同時代〕の女性歌集シリーズとして出版されたもので、著者の第一歌集となる。同書から『短歌という爆弾』で引用されていたのは、例えば次のような歌だ。
かたむいているような気がする国道をしんしんとひとりひとりで歩く
カーテンのすきまから射す光線を手紙かとおもって拾おうとした
サラダより温野菜がよいということがよみがえりよみがえりする道だろう
どれも技巧的というよりも淡々と、さらっと思ったままを書かれたような印象をうける作品である。詠まれている題材は、「国道を歩く」「カーテンの隙間から射す光線」「温野菜がいいと知った帰り道」という日常の一場面であり、特別なイベントや珍しい事物が読まれているわけではない。定型の崩し方に癖があるものの、いずれも散文に近い文章で、一首の中でのアクロバティックな展開や、目を引く比喩などの、いわば短歌の芸としての技法のようなものがみあたらないものの、それでいて冷たく冴えわたった、異様なほどの実存感のようなものを感じさせる。
ブティックのビラ配りにも飽きている午後 故郷から千キロの夏
生きてゆく理由は問わない約束の少年少女が光る湘南
ジャングルの夜にまぎれてドーナツとアイスクリームを食べている。風。
どんなにか遥かな場所から僕にくる風の吹く日にベランダにいる
いずれも一読してまぎれもなく青春の歌だと感じるのだが、「青春」という言葉から連想されるような過剰さは感じられない。強い感情があふれているわけでも、反対に冷めた目つきで世の中を見ているわけでもない、特別でないいつかの午後に浴びていた風の匂いのような、十代の日常で確かに感じていたような空気感にあふれ、不思議と懐かしく感じる。おそらく、口語表現の流れるような軽いトーンと、繰り返し書かれる「風」のモチーフによるところもあるのだろうが、青春時代のさわやかな風を感じさせる歌だと思う。
ただ、早坂類の短歌はどれも言いしれない切なさを感じることも事実だ。例えば、2首目の歌などは、「少年少女が光る湘南」というキラキラした下の句に対して、上の句の「生きてゆく理由は問わない」には初めから何もかも諦めているような寂しさがある。
●「どうでもいいことで回復したいな」 静かな青春の歌
青春の歌といってもたくさんあるが、他の歌人の書く、ロマンチックな歌と比べてみても、かなり違う感触があるように思える。
同世代の女性歌人にあまり詳しくないのでいい比較対象をひけないが、例えば俵町の『サラダ記念日』的な恋愛の歌なんかとは印象がかなり違う。
「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ 俵万智
読んでいけば分かるのだが、単に歌人による個性の違いといって片付けられないような、世界の認識の違いが早坂類作品にあるような感じがする。
まず、早坂類の短歌にも(あとで詳しく紹介するように)恋愛の歌もあるのだが、そもそも他人や「あなた」「君」について書いた歌は多くはない。
彼方から見ればあなたはオレンジの光の森のようではないか
じゃあまたなとミニバイクにまたがってアクリル色の風になる君
この歌のように、彼女の歌のなかでの他人は、遠くから観測される対象、遠景のなかに溶けていってしまう対象として詠まれていて、二人の関係性のなかに踏み込んだような歌が少ない。俵万智の「寒いねと~」の歌が他者と確かなつながりと感じさせるとは対照的である。早坂類のこれらの歌のなかには、人間関係のような過剰なものを避ける心理がみうけられるように思う。言い換えれば、他人というものをリアルに感じられないような感覚が背後に隠れていて、その若々しい危うさが魅力的に迫ってくる。
また、他人の存在が遠いだけでなく、自分の存在すらもリアルに感じられないような不安定さをあらわにした次のような歌もある。
ときどきは自分の体を見おろして今在ることをたしかめている
ポケットに手をいれながらふわふわと誰のものでもないわたくしとなる
二つ目の歌はなんとなく感覚として共感できる歌だが、よく考えると「ふわふわと」という希薄な自己の感覚と、「誰のものでもないわたくしになる」という確固とした自己の感覚が結び付けられているのには絶妙な矛盾が感じられる。おそらく、「友人」や「生徒」や「恋人」といった確固とした役割をあてはめられた自分を自分としてリアルには感じられず、逆説的に、何物でもないふわふわと拡散しそうな自分が一番リアルに感じるということだろうが、思春期の心情として、私としてもすごくよく分かる心理だ。
こういった性格からか、人間を詠んだ歌のほかに、歌材としても街中の事物を扱った、路上観察的な歌も多くみられる。
「橋本」という表札の脇にあるきんもくせいがせつない夕べ
夏の夜に光り続ける青白い電話ボックスを抱きしめに行く
うつくしい午前五時半ころころと小石のように散歩をします
「どうでも良いことって僕は好きだよ、そういったもので回復したいな」
決して過剰なものではなく、私を傷つけない「どうでも良いこと」、例えば「青白い電話ボックス」のようなもので「回復したいな」と静かに呟くようなモノローグが、早坂類の短歌にただよう雰囲気をうまく表しているように感じられる。
また、女性歌人でありながらも「僕」という一人称が常に使われているが、「女性の歌」につきまとうある種過剰に女性的なニュアンスを遠ざけるために選ばれているのだろうと思う。ここでの「僕」という一人称は、女性的にも男性的によらない、中立的で自分が定まりきっていない印象があり、それが作者の特有なキャラクターを形成している。
●「生の一回性」の、研ぎ澄まされた透明なまなざし
早坂作品の青春歌の特徴は、単に題材の問題だけではない。例えば次のような穂村弘や俵万智の歌
体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ 穂村弘
砂浜に二人で埋めた飛行機の折れた翼を忘れないでね 俵万智
これらの歌では、「ゆひら」「飛行機の折れた翼」という明確な短歌の核になるポイント(穂村弘の有名な言葉では「砂時計のくびれ」)があるのに対して、早坂類の作品では核となる部分が指摘しにくいところがある。もちろん、「アクリル色の風」や、「故郷から千キロの夏」のような目を引くワードがある場合もあるが、「かたむいているような気がする国道をしんしんとひとりひとりで歩く」や「どんなにか遥かな場所から僕にくる風の吹く日にベランダにいる」などの、ただ直接感じたことを述べたような歌は、歌の中心はどこかと言われれば迷うのではないか。
そのため、穂村弘や俵町の作品がドラマのワンカットを見ているようなものだとすると、早坂作品の場合は空白の多いスナップ写真をみているような感じがするのだ。
さりげなくさしだされているレストランのグラスが変に美しい朝
空っぽの五つの椅子が海沿いのホテルでしんと空を見ている
こういった歌は非常にスナップショット的だ。まさに写真を撮るように作られた歌という感じがする。
こうした特徴については、穂村弘が『短歌という爆弾』の中で述べている「入力型と出力型」で整理すると分かりやすい。穂村弘は短歌は大きく入力型の歌と、出力型の歌に分けて整理できると論を展開しており、早坂類が入力型の歌人として紹介されている。簡単にいえば、入力型は外界を感受する過程に重きを置くもので、出力型はその表現の仕方に重きを置く歌だ。
カーテンのすきまから射す光線を手紙かとおもって拾おうとした 早坂類
早坂類のこの短歌が発見の素直な描写がそのまま詩になっている一方、出力型の例として挙げている歌
栗の載るケーキのように近ごろのおまえあやうし明かるけれども 吉川宏志
こちらは、観察した内容そのものというよりも、「栗の載るケーキのような」といった比喩や言い回しの面白さがポイントになっている。また、入力型の歌は「狂信的な集中力による思い込みのようなもの」がみられるのに対して、出力型の歌は「緩やかな印象があることが多」く、「このような表現の自在さは、表現者と対象との間の距離感、すなわちある種のゆとりから生まれて来るものだろう」と指摘されている。
早坂作品の多くは入力型に振りきった歌が多くて、まさに「狂信的な集中力による思い込みのようなもの」で詠まれた歌は、我々を作者の狂信的なまなざしにまきこむ。出力型の作品の、作者は正気を保ってパフォーマンスをしてくれていて、自分たちはそれを安心して楽しむという、演者と観客のような関係とは違った、緊迫感のある読みを読みを要求する。その緊迫感についても、穂村弘は「〈本当のこと〉の力」という言葉を使って、見事に説明している。
その川の赤や青その川の既視感そのことを考えていて死に損なった
早坂のこの短歌を詠んだとき、穂村弘はこれは本当のことを詠んでいると直観したという。
歌としていいかと訊かれれば、ためらわざるを得ないこの作品の、しかし見た瞬間にわかってしまう、コレハホントウノコトダという強烈な感じはどこから来るものなのだろうか
『短歌という爆弾』(文庫版) 穂村弘 p.172
冒頭で紹介した、「サラダより温野菜がよいということがよみがえりよみがえりする道だろう」の歌もやはり本当のこと、といった感じをうけるが、歌の〈本当のことである〉という緊迫感や魅力は、「死にそこなったこと」と「温野菜がよい」ことの間にある事実としての重さの違いによらない。また、読者が川が赤や青に見えるか、野菜の栄養価に関心があるかという事実によらないと、続けて述べたあと、次のように書かれる。
では、それらの要素と無関係に存在する〈本当のこと〉の力の正体とは何だろう。それを考えるための手がかりとして、まずは早坂作品に共通する独特の緊迫感に着目したい。私にはこの緊迫感は、この世に生きていることがただ一回限りの出来事だという作者の強い体験から生まれているように思われる
同書 p.175
ここで出てきた「生の一回性」というのがキーワードなのだが、穂村弘の文章を読んでいるとなんとなく説得力があるものの、若干飛躍していて人に改めて説明しようとすると難しい。ただ、私の解釈だが、この「生の一回性」がどういうことかについては、歌人が歌を詠む動機を考えると分かりやすいように思う。
木下龍也は、『天才による凡人のための短歌入門』のなかで、短歌は「共感」「納得」「驚異」に分けられると説明していた。先ほども述べてきた、短歌の核(穂村弘のいう砂時計のくびれ)というのも、「驚異」を通過することで、皆に「共感」「納得」を与えるひっかかりという意味であった。
多くの歌人はおそらく、意識的にせよ無意識的にせよ、読者を「共感」させたり、「納得」させたり「驚」かせる歌を作ることで、読者に「理解」「承認」してもらうことを目指しているように思う。それに対して、早坂作品の、他者の共感や承認を求めない感じはどうだろう。共感や承認を求めないというのは、単に難解な歌を作ってみたり、あえて理解されづらいことを言ってみるということではもちろんない。そういった場合でも裏ではそういう自分を認めてほしいという顕示欲があることがほとんどだである。それに対して、早坂作品の場合は、初めから承認されることを諦めているような潔さがある。すでにみてきたように、彼女にとって、他者とは遠景のなかにとけていく「アクリル色の風」や「オレンジの光の森」のような存在で、「共感」や「驚異」によって通じ合えるような存在ではないのだろう。
では、他者からの「承認」を求めない孤独な歌人は、何を目指して歌を作るのだろう。それを考えたときに出てくるのが、「生の一回性」である。「カーテンのすきまから射す光線」が手紙にみえた一瞬も、「サラダより温野菜がよいこと」がよみがえりよみがえりする道も、赤や青に見える川で死に損なった経験も、すべてかけがえのない生の戻らない一瞬だ。いま、ここにある瞬間がかけがえのない生の一瞬である。そういった意識があるから、その本当の瞬間を思わず掬い取ってしまう。それが早坂類の場合の作歌の動機なのではないか。
しかし、逆説的なことに、他者をはじめから共感させることを目指した歌ではなく、〈本当のこと〉を掬い取った歌のほうが、読者につよい共感を与えることになる。歌を読んでいて感じる、一回の人生のかけがえのなさは誰もが共通して抱くものだからだ。
これらの作品では〈私〉の認識や行為のすべてに前述の生の体験が投影されており、そこから生まれてくる言葉たちと出逢うとき、読者は何よりも自分自身の生の一回性を思い知らされることになる。生の一回性、すなわちそのかけがえのなさこそは、ひとりひとりの体験や価値観の違いを超えて存在する唯一のものである。一首の歌のなかに読者が〈本当のこと〉の輝きをみるとき、その真の光源とは読み手自身の生のかけがえのなさにほかならない
『短歌という爆弾』(文庫版) 穂村弘 p.177
私の場合、早坂類の短歌に惹かれた理由は、入力型で本当のことを詠むスタイルと、他者からの承認への無頓着さであった。入力型の歌は確かに、初心者にもわかりやすいので、こちらのほうが短歌での入門ということになっているのかもしれないが、現代短歌を読み始めてはじめてにハマったのは、どちらかというと言語表現や発想で驚かしてくれるような、出力型でフィクショナルな歌だった。もちろん、そういう歌も好きだし、言葉の工夫で世界観を構築できる作家を尊敬するのだけど、あまりにそういう短歌らしい短歌にばかり触れているうちに、「言葉を探してきている感」や、「うまいことやエモいことを言ってやった感」を勝手に感じて少し冷めるようになってきてしまう段階を経験していた。しかし、この歌集の歌はそういった感じが希薄であり、かえって新しく感じたのだ。
もちろん、穂村弘も述べているように、入力型/出力型の区別ははっきりとしたものでないし、「本当のこと」を感じるのに、現実のことを必ずしも詠まなくてもよいという問題もある。ただ、歌の言語表現的な技術や発想の巧みさ以前に、精神性だけで圧倒する歌人がいることには強く惹かれたのは事実だ。このことは、(再び『短歌という爆弾』からの引用になってしまうが、)穂村弘が「宙の知恵の輪」というキーワードを使って、早坂類の短歌を絶賛している部分でもある。
●孤独な歌人の向かう幻想の砂漠
早坂類の短歌で、他者とのリアルな関係に入っていけない感覚については述べてきた。この歌集のなかでもはじめのうちは、具体的な人名がでてきて、例えば「かたちゃん」と原宿にいく連作があったりする。後半にもユキちゃんとでかける連作などあるが、おそらく時系列順に並べられたと思われる歌は、途中から孤独な感覚を詠む歌が目立ってくる。
なにひとつ嬉しくはない僕ひとりおはじきよりもはじかれていて
ふと僕が考えるのは風のまま外海へ出たボールのことだ
人と見る夢ならばまず届かない夢だと思え 花は一輪
生きるならひとり真夏の叢の人に知られぬ井戸よりもっと
あまりに厳しすぎるのではないかというほどの孤独感が、「花は一輪」の言い捨てるような調子に表れている。
そんな孤独を抱えた作者の、「あなた」のことを歌う、おそらく恋の歌の強度は本当にすごい。
今朝きみが食べるレタスやトマトには僕のかけらもまぎれこまない
僕たちが知らない時代を君に似た少年がてくてく歩くなんてね
回転ドアのあの三角にぎゅうぎゅうと君といっしょに入りたかった
一つ目の歌は、比喩なのか、文字通りに自分のかけらが紛れ込むことを望んでいるのかわからないような狂信的な印象をうけるが、朝に食べるレタスやトマトというさわやかなモチーフによって、作者らしいさわやかな空気感に包まれている。平熱の日常のなかに、「きみ」とつながりたい狂気的なまでの思いの強さが溶け込み、静かな心のなかに圧倒されるほどの強度の思いがあることを感じさせる。
二番の歌は、恋愛の歌でもないのかもしれないが、「僕たちが知らない時代」の、「君の似た少年」が歩く想像すらもいとおしいという思いの強さと、それがたわいもない永遠に確かめようもない妄想であることを知っている、「歩くなんてね」の寂しさの絶妙なバランスに胸がぎゅっとなる。
最後の一首なども特に好きで、まく論理的には説明できないけれど、永遠にたどり着けないものを思うような、思いの強さがあふれ出してくるようだ。
再び引用になってしまうが、このうまく説明できない思いの強度のようなものを、穂村弘は「宙の知恵の輪」と呼んで紹介している。「宙の知恵の輪」というのは、「愛の希求の絶対性」のことであり、たとえその恋がかなったとしても「宙に浮かんだまま永遠に解けない知恵の輪のように、生まれたての恋人同士の頭上にきらきらと存在し続ける」愛の不思議さのことなのだが、「私の知る限り、近年の女性歌人のなかで最も美しい知恵の輪の煌めきを感じさせてくれる」「知恵の輪の強度という点では、早坂類が最強だと思う」と穂村弘も明確に宣言しているのが早坂類の歌である。
穂村弘のこの章は、当時の女性歌人の歌について論じた部分なのだが、この文章は特に面白い。何が面白いかというと、――『短歌という爆弾』という本が全体を通してそうなのだが――短歌の入門書といっておきながら論じられうのは歌の技術ではなく、歌を支える精神性をであることであり、その過程で短歌的な技術(穂村弘の言葉で言うと、「歌材の幅広さ」、「感覚の鋭さ」、「言葉の斡旋の巧みさ」など)に優れた他の歌人よりも、技術的に工夫した跡のみえない、天衣無縫な早坂類の歌のほうが高く評価されていることだ。
けれども、他の歌人の歌と比べて、早坂類のさきほどのような短歌を、読んでみるとそう評価する理由が分かってしまう。不思議なことに、単に「うまい歌だな」を作るなという歌人の歌は感心はするがすぐに忘れてしまうけれど、そうでないのにどうしても忘れられない歌というのがある。何か切実な思いがあって、伝えようとしていることが分かる歌というのか。
先ほども紹介した歌
今朝きみが食べるレタスやトマトには僕のかけらもまぎれこまない
僕たちが知らない時代を君に似た少年がてくてく歩くなんてね
回転ドアのあの三角にぎゅうぎゅうと君といっしょに入りたかった
こうした歌は、とても忘れられないような歌だ。
さらに、ふいに寂しさがあふれでたような呼びかけの連続
手を触れてよろしいですか撫でさすりしてよろしいですかそこにいますか
それに、次のような突然の、まっすぐな告白
ほんとうはありとあらゆるひとたちが僕はしんじつ好きでした
何故僕があなたばっかり好きなのか今ならわかる生きたいからだ
こういうのが挟まれると本当に泣けてくる。
また、歌集の最後のほうになると、天国、夢、虹、砂漠といったワードが多くなる。
それは、決して届かない愛の希求を叫び続けた詩人が、現実から離れ夢のかなたに突き進んでいくかのようだ。
オパールの小鳥となって天国のむこう側まであなたを追おう
夏鳥は夢の岸辺を唯一の磁石にやがてこの地へ還る
天国の浜辺できみを呼んでいる私の椅子は春のそらいろ
幻の雪は海から空へ降り星々を越えたましいになる
あのひとがなにをいおうがあのひとはくるしいひとだきいてあげよう
私の感じ方だけかもしれないが、現実の世界にうまく溶け込めず、そのせいで目に映るすべてをかけがえのないものとして見ていた詩人が、ついには現実に背を向けて幻想の国へ去って行ってしまうようで、とても寂しい終わり方であった。
実際に、早坂類はこれ以降、しばらくの間短歌から離れてしまう。その後は詩の分野では活動していたという。
あとがきで書いていたように、作者にとって、秩序だったもの(不自由なチューリップ畑と作者が呼ぶもの)が苦手で、定型にはめる短歌も、最後までこれでいいものかという迷いがありながら詠んでいたらしい。本来、あらゆる定型から自由な、詩という定型のほうがあっていた作家ということなのだろうが、『風の吹く日にベランダにいる』におさめられた歌は、定型にはまりきらない感覚と、短歌が要請する定型という秩序のなかで、絶妙なバランスのもとうまれた奇跡的な歌だったのかもしれない。
しかし、喜ばしいことに、その後の2002年に第2歌集「ヘヴンリー・ブルー」、2009年に第3歌集「黄金の虎(ゴールデン・タイガー)」がでたというので、いずれ読んでみたいと思う。
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